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☆レポート☆斎藤環×萩尾望都対談

天野章生のレポートをお届けします!


10月18日(土)18時~20時 朝日カルチャー新宿
 「母は娘の人生を支配する2 少女まんがと「母殺し」の問題」斎藤環×萩尾望都対談

晴れた秋の日の夕方、群馬から遥々と出かけてきました。

お目当ては精神科医で「戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)」の著者でもある斎藤環さんの講座。なんと萩尾先生が対談相手として登場する回です。予習として斎藤先生の著書「母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス 1111)」(2008年5月30日初版)を購入して車内で読みながら行きました。

同行の友人と早めに会場に着いたところ既に並んでいる人たちが。早めに来て正解だったね、といいつつ前の方の席に。両先生のお顔がよく見えるいい位置です。

時間になり優しそうな笑顔の斎藤先生と、ベージュのすきっとしたスーツがよくお似合いの萩尾先生の登場を満席の場内が拍手でお迎え。わくわくした雰囲気が漂っていました。

まずは斎藤先生からのご挨拶、対談の主旨であるご自身の著書の内容をざっと説明。

これまで母娘に関する著書は事例研究が主であったが、自分の今回の著書は事例だけでなく小説や漫画といったフィクションからも切り込んでいったのが主な特徴であるということ。そして「イグアナの娘」を始め母娘の複雑な心理の確執をテーマにした傑作を描かれた萩尾先生をお招きしてお話を伺うのが今回の主旨であること、などを説明いただきました。中でも母と娘の関係というのは父と息子・娘、母と息子といった関係よりもより特異である、なぜなら母娘は身体性の共通をもち、女性は身体性というものを男性より常に意識せざるを得ないので…といったお話は分かりやすく腑に落ちるものでした。また身体性だけでなく、ジェンダーバイヤス、女性らしいしぐさや行動など男性的価値観の反転性といった精神面でも女性の方が男性よりも責任感・罪悪感をもちやすく、マゾヒスティックコントロールにより母との関係に支配されやすい、といったことなど、専門的な内容を短く分かりやすく説明いただき興味深かったです。

(興味のある向きは是非先生の著書の方でご確認ください。)

その後いよいよ斎藤先生が質問を投げかけ萩尾先生が答えるという形で対談が始まりました。斎藤先生が萩尾作品をかなり読み込んでおられて短い質問でもお話がすらすらと引き出されていくのが一種快感でした。

作品が生まれるきっかけになったことや実際の親子関係が作品や先生の思考にどう影響していったか。これまでも対談、インタビュー、エッセイなどから伺っていた話もあったけれども新しく聞けた話も多く、また萩尾先生ご自身も話しながらあらたに気づかれたことなどもあったようです。

(つづきます。下のリンク↓をクリックして開いてください)

◆まずは「イグアナの娘」◆

質問はまずは母娘関係を扱った名作「イグアナの娘」から始まりました。私もこの作品は非常に衝撃を受けたし読み込んで以前に萩尾研究室に挙げたこともあるので、興味津々でした。

「母に嫌われる娘という表象がなぜイグアナだったか?」という質問に対して、爬虫類はけっこう好きでガラパゴス島のイグアナの出てくるビデオを見ていて人間の胎児みたい、人間になりたいと考えている顔のよう、といったことを考えたのがきっかけという萩尾先生。どんなことからでも創作に結びついていくのだな!と改めて実感。

◆実母、実父のお話◆

「私も小さい頃はお母さんみたいな人にだけはなりたくないと思っていました。」

萩尾先生のお母様はかなり激しい気性の方とのお話。いつも怒っていて褒められることがない。こうあるべきというご自身の要求を常に子供達に求めていく様子がお話の中からうかがえました。さらにお母様のお母様はさらに厳しい人だったというお話も。

そしてそれはお母様の印象というだけでなく萩尾先生にとっては祖母様ですが、実際にその切れやすい一面に触れたエピソードも出てきて、相当厳しい方だったようです。

「今度、お母さんは自分のお母さんと喧嘩したりしたことがあるか聞いてみようと思う」とおっしゃっておられたので、またそういうことが作品につながっていくのかもしれません。

「家をずっと出たかった、上京して親と距離がもてたらほっとした」

これまでもいくつかのエッセイで語られてきた親御さんとの確執について今回も出てきました。30代で大きな確執があって、お母様に「自分は家を恋しいと思ったことはない」と言ったら手紙で「あなたの言ったことを一生忘れない」と書かれたという話。

笑いながら話されていたし、会場は終始和やかだったけども、当時は壮絶なものがあったのかもと帰りの電車で考えて、そうしたことが今では笑って話せるところにいらっしゃるのだとも思いました。

お父様はお母様に比べると穏やかで優しい人だったそうですが、「話は通じない」。

世間はこうあるべきという概念が確固としてあって、それ以外のものが認識できないようなところがおありだという。

「そもそも父は女性が働くというのが分からない。父母は漫画が嫌いなので漫画家というのを認められない。漫画は悪書なので娘が漫画家というのは恥ずかしいことだと思っている。漫画はひらがなを読めない幼稚園までの子供がひらがなを覚えるために読むものだ、と父母は思っている。

だけど一方で受賞したり新聞記事に載ったりTVに呼ばれたりすることは父母も自慢できることと認めている、だけどもその受賞と漫画家ということについての認識が乖離している。いつでも「いつ漫画家を辞めるのだ?」と言ってくる。絵本作家とかならいい。漫画家辞めて何すればいいの、と聞くと「TVとか新聞に出て稼げばいい」という。」

私のような漫画ファンにとって萩尾先生というのは素晴らしい作家であり、同時代に生まれて作品を読ませてもらえてこんな幸福はないというほどの存在であるのに、親御さんにとってはどうしても漫画家という存在が認められないという。

何度か読んできた話ではあるけれども、この分かりあえなさというのは心底哀しい。

でもここまでキレイに否定される親御さんというのもある意味スゴイ。萩尾先生の凄さはこの親御さんがあってのことなのか?とも複雑な回路の中で思ったり。

ここまでの分からなさがあったから、どうしたら分かってもらえるのかという創作への逃避や情熱につながっていったようなところもあったのだろうか?などと考えてみたり…。

◆そして「残酷な神が支配する」「バルバラ異界」◆

「親の視点で物語を描いたのは「バルバラ異界」が初めてだった。」

父親として頼りないような渡会さんの登場は萩尾作品でも画期的だったと思います。その登場につながったのはやっぱりその前の「残酷な~」にあったそうです。

「それもその前に描いていた「残酷な~」の間に親はでは何を考えていたのか、親にも子供の頃があって段々育って親になった、ということに初めて気がついた。それがバルバラにつながっている。」

自分が40歳50歳になっても大人になった実感がもてなかったという萩尾先生。私自身もまったく同じように感じているので萩尾先生の感覚には共感しました。子供を育てていないということもあるけれどもいつまでも大人になったような実感がないということ。でもこのような年になってはじめて気がつくこともあるわけで。

「自分は子どもの頃、親は大人だったように見えたが今の自分のようだったならばそうじゃなかったのだな、と。周囲の人(といっても漫画家や編集さんというのばかりだけども)も同じようなことを言っている。いつまでたっても大人になれない。」

年に応じた実感や考えがこんな風に新しい作品にどんどん反映していく萩尾先生は、ご両親が常に自分の固定観念から動かないのを反面教師として、どうやったらそうした両親の心理や考えを受け入れていけるのかと常に模索しておられるようにすら思えます。柔軟に変化して進化していく作家性、そこが萩尾先生の凄さなのだと思いました。


◆セクシャリティやヘッセのことなど◆

「初期に性的な要素が乏しいのはなぜ?当時の作家の意識として敢えて?」という斎藤先生。「当時の少女マンガだからプラトニックな方向にというのが一つ」「日本モノで母親を描くとなると現実の母のイメージが出てきて辛いし考えただけで息苦しいから。」SFや洋モノを描くことが多かったという萩尾先生。

「小学校時代というのは一番長く感じるし、この時代に凝縮している感情、表皮のように剥がれない取り付いてるものがある。」

「色々抱えている人に子供を育てさせないほうがいいのではないかとファンタジーなどでは思ったが、ことはそう簡単ではない、これはもうしょうがない。親は子を子は親を引き受けなくてはいけない。」

「トーマなどを女学校にしなかったのはやはり生々しさを避けるため?」という質問に対して「やはり知らない世界だからファンタジックに描ける」との答え。

さらには続けてヘッセの影響を語られました。ピュアに美しいものを求める抽象的観念を文章にしてあることに驚き、そうしたものを否定されてきたのでノーベル賞作家というちゃんとした人に肯定されて救われた、というお話が出ました。

ヘッセは「トーマの心臓」始め萩尾作品に影響を与えた作家さんなのだという認識はあったのだけども、両親の狭い価値規範に抑圧されていた萩尾先生を大きく救った作家だったのだと改めて実感でした。

斎藤先生はそこから「やおい」の話を少しされました。

「トーマの心臓」や「ポーの一族」の世界は女性にとって知らない少年達の世界をファンタジックに描くという意味では「やおい」の起源的な部分があるが、そこに母娘関係の複雑な心理葛藤があるとしたら(「トーマ~」の舞台が女子校でないのは生々しさを避けたい、生々しさを避けたいという心理の裏には母と共有する身体性を避けたいという思いがあるから)「やおい」の起源は母娘にありと言っていいのか、ということになるのだが、そこまでは言わないほうがいいんでしょうか、と。

これに対して萩尾先生は「それは自分にも分からないので今後の宿題に」

斎藤先生も「そこまで言い切る方向にもっていかないほうがいいのでしょうね」とおっしゃるので会場からはちょっと穏やかな笑いが起きました。

萩尾作品に「やおい」の要素を見ること自体もファンによっては大変にナイーブな問題なので、ここは言い切らない方向でという結論に私も賛成でした(笑)

私自身は萩尾ファンの中でも「やおい」に抵抗がない、むしろよく読む読者なのだけど、それが自分自身の母娘関係の心理の葛藤からきてるのかどうかと言われると微妙だからです。ただ、自分の身体性を遠くにおいやって、ファンタジー世界としてBLを読むという心理はあると思います。自分の身体性を想起させる作品よりも生々しさがないほうを選ぶというか。その描写がどんなにセクシャルであってもそれは自分の肉体ではないということ。最後に出た斎藤先生の質問は私自身にも宿題となって残りました。

よく考えると非常に重いテーマであり、萩尾先生のお話も深刻といえば深刻なものであるのに常にユーモアを交えて軽妙に話されるやりとり。お陰で終始会場には笑いが絶えず、和やかで熱のある雰囲気でした。

質問もたくさん時間を延長してとっていただき、遥々出かけた甲斐があったというものです。このような企画をされた関係者諸氏に感謝いたします。

この対談は後日発行される雑誌に収録の予定があるとのことなので、詳細の内容は是非そちらでお読み下さい。私も改めて整理された収録記事を読めるのを楽しみにしています。

文責・天野章生


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